キサーゴータミー

2015年9月16日      ひと言法話, ブログ      松林院

芥子の実

昔々、インドのとある村にキサーゴータミーという若い母親がいました。
そのお母さんは、自分の赤ちゃんを大切に可愛がり、大事に大事に育てていました。
しかし、ある日、不幸にもお母さんは赤ん坊を事故で死なせてしまいました。
ゴータミーは、愛する子供を失ってしまい、泣きわめき、嘆き、
そして悲しみのあまり、半狂乱に陥ってしまいました。
なんとか、自分の愛する赤ん坊を生き返らしたい、生き返らせてほしいと思い、
会う人、会う人に「誰か私の赤ちゃんを生き返らせくれませんか?お願いです。
私の赤ちゃんを生き返らして下さい。」と訪ねて参りました。
いろいろな人に聞いてるうちに、森の中に、不思議な力を持つブッダという方がいる。
その方なら赤ちゃんを生き返らせることが出来るかもしれないと思い、お釈迦さまのもとを訪れました。

 するとお釈迦さまは、「それはお気の毒だから、私が赤ん坊を生き返らしてあげよう。
村へ帰って、芥子の実を2,3粒もらってきなさい。」とゴータミーに告げました。

 芥子の実ならその当時のインドの農家にならどこにでもあります。
何か不思議な術によって生き返らせてくれるのでは?と思い、
ゴータミーが走り去ろうとすると、その背後からお釈迦さまの声が聞こえてきました。

「ただし、その芥子の実は今まで死者を出したことのない家からもらってこなければならない。」

 まだ半狂乱に陥っている彼女にはその意味がわかりませんでした。
村に帰った彼女に村人は喜んで芥子の実を提供しようとします。
しかし、いくら彼女が家をまわっても第二の条件(死者を出したことがあるかないか)に対しては、
「とんでもない!うちでは父や母の葬式もしたし、子供の葬式も出した。」という返事しか聞けませんでした。

 やがて、お釈迦さまの元へ帰ってきた彼女は、

「もう芥子の実はいいです。我が子だけが、亡くなったのではありません。」

「どうか私にいかに生きればいいのか教えて下さい。」

と世の中の無常を知り、お釈迦さまのお弟子になられました。

 確かに、人を愛すれば、愛するほど、愛が大きければ大きいほど、
その人を失った苦しみは大きく、計り知れないものです。
ゴータミーも無我夢中で、赤ちゃんの為に芥子の実を探したでしょう。
村の中をクタクタになるまで探しまくり、まわる家々で、
ある家では自分と同じ環境の人に出会い、二人で涙を流したこともあったでしょう。
あるいは、悲しみを乗り越えて、充実した日々を送っている人に出会ったことも。
そうしてゴータミーは苦を乗り越えることが出来たのです。

 「苦」は、人を苦しめる為にあるのでありません。人を成長させる為にあるのです。
成長させる為に「苦」がある。これが仏教なのです。
キリスト教やイスラム教では、神の罰として捉えます。しかし、仏教は違います。
これが仏教の素晴らしさだと思います。

また、最近では、自分と仏さまがいて、両者は、全く違うものだと考えている方が多いように感じます。
日本人は、仏教は、神様を仏さまに置き換えただけの宗教だと思っています。
だから、仏さまは、ものを頼んだり、崇めたりする対象にとどまっているのです。
それは神道です。仏教は違います。自分イコール仏なのです。
ここを大切に押さえておかないと、『妙法』が出てこないのです。