
2025年1月15日
私たちはどのように生きるべきか
遠い遠い昔のこと、威音王仏(いおんのうぶつ)という仏さまがお隠れになられて
1000年が過ぎた頃、静かな山里に1人の修行僧がいました。
この修行僧は、仏さまの大切な教えである経典を学ぶのではなく、
道行く人々を拝んでばかりいたため、村人から「デクノボー(常不軽)」と呼ばれ、
バカにされていました。
彼は、道で出会った誰に対しても両手を合わせて丁寧にこう言いました。
「私はあなたを軽んじません。あなたは必ず仏さまになられるからです。」
子ども、大人、僧侶や農家、貧しい旅人に対しても同じように、彼は頭を下げ、
丁寧に合掌して拝みました。
しかし、村の人々は彼の言葉に首をかしげました。
「わしが仏さまになるだって? 毎日畑を耕すだけで精一杯なのに、そんなことがあるわけない。」
ある者は「気味が悪い」と言い、またある者は「馬鹿にされている」と思い込み、
彼を嘲笑しました。「またあのデクが人を拝んでいるぞ!」と。
それでも、デクノボーは何度も何度も「あなたは仏さまになられます」と拝み続けました。
しかし、彼を疎む人々の中には、いじめる者も現れました。
「またあの坊主が来たぞ!」
「仏になれるだって? 経典も読まないやつが何を言っとるんじゃ!」
彼をののしる者、棒で叩こうとする者、さらには石を投げつける者もいました。
それでも彼は怒ることなく、逃げながらも振り返って微笑み、
「私はあなたを軽んじません。あなた方はみな、必ず仏になられるからです。」
そう言いながら合掌して拝み続けました。
デクノボーは、経典を詳しく学ぶことよりも、人々に深い敬意を示すことを何よりも大切にしていました。その姿を見た村の子どもたちは次第にこう思うようになりました。
「どうして石を投げられても、あのお坊さまはあんなに優しいの?」
子どもたちの疑問はやがて大人たちにも伝わり、村人たちは自分たちの行いを振り返り始め、
デクノボーの言葉に耳を傾けるようになりました。
それ以来、村では誰も人を見下したり馬鹿にしたりすることがなくなりました。
村人たちは互いを「尊い存在」として大切にし合うようになったのです。
初め、村人たちが「常に軽んじられた者」として呼んでいた「常不軽(じょうふきょう)」という名前は、いつしか「常に相手を軽んじない方」という意味に変わりました。
そして、彼の行いは菩薩(ぼさつ)の修行として人々に称えられ、
村人たちは「常不軽菩薩(じょうふきょうぼさつ)さま」と呼んで手を合わせるようになったのです。
常不軽菩薩はその後も生涯、人々を拝む修行を続けました。
そして命を終えた後、積んだ善徳(ぜんとく)によって仏となられました。
この常不軽菩薩こそが、お釈迦(しゃか)さまの過去世のお姿です。
常不軽菩薩はすべての人の心の中にある仏の心に手を合わせ、全ての人を仏さまとして拝みました。
この姿勢こそが、お釈迦さまが私たちに伝えたかった「どのように生きるべきか」
という教えそのものです。仏教には数えきれないほど多くの教えがありますが、
突き詰めれば常不軽菩薩さまのように「どんな相手に対しても軽蔑や否定をせず、
すべての人を等しく尊い存在と見なす」という行いに帰着します。
私たちは過去の行いに囚われることなく、今この瞬間から善き行いを始めることができます。
あなたが持つ仏の心は、必ず人々を救う力になるのです。