「空(くう)」と「諸法実相(しょほうじっそう)」は何が違うのですか?


「空(くう)」と「諸法実相(しょほうじっそう)」は何が違うのですか?

ご質問ありがとう御座いますm(_ _)m
大変難しいテーマですので、若僧の一考察ということでお返事させて頂きます。

ご質問して頂いた「空(くう)」と「諸法実相(しょほうじっそう)」は、
共に仏教の思想のひとつで、自己と他者の関係(縁起)を明らかにしたものです。
「空」は、『般若経』『維摩経(ゆいまきょう)』などの法華経以前のお経に詳しく述べられています。
「諸法実相」は『法華経』のみに述べられており、『方便品第二』の三遍繰り返して読む「十如是」の部分です。
「諸法実相」についてはまた特集で詳しく述べたいと思いますので、
今回は簡単に「空」と「諸法実相」の違いに触れさせて頂きます。
日蓮宗では、あまり「空」について語ることはありませんが、
「空」とは、自己と他者との間に隔たりを否定し、境界線を作るなということです。
他者、世界を否定する。さらには自己をもまで否定する。
世界には確かな実体などない。しかし、そこには慈悲、救済と言った、「法」のみぞあるということでしょうか。
西洋哲学で言えば、ユングの集合的無意識に近いものがあると思います。
難しくなってしまいましたが、簡単な言葉でいえば、区別をせず、心をひろくひろく持てということだと思います。

次に「諸法実相」ですが、「空」とは反対の捉え方になります。
「諸法実相」の意味は、全ての存在の真実のあり方という意味です。
「空」の思想とは違い、「諸法実相」は、全てのものには存在理由があると説かれています。
全てのものが存在し、パワーを放っている。
そのパワーが複雑に関係し合い、全てのものに関わっており、不必要なものなど何も無いという意味です。
「空」の思想が否定の思想なら、「諸法実相」の思想は肯定の思想なのです。

「空」と「諸法実相」に触れさせて頂きましたが、
その2つの思想が言いたいことにはそれほど差がないと思います。
仏教では、全てのものが仏さまに成り得る尊い存在、又は、全てのものが仏さまと解釈します。
「空」では、「悪人」、「嫌いな人」という差別をなくし、全てのものを敬い拝みましょう。
「諸法実相」では、全てのものは、仏さまなのだから敬い拝みましょうとなるのです。