2017年7月06日
佐渡島研修旅行その②
それから日蓮聖人は、着岸した松ヶ崎から峠を越えて地頭に会いに塚原にある屋敷に向かわれます。
その峠には、日蓮聖人が通ったとされる道中に塔が建てられていました。
「日蓮聖人がお通りになったと言われている峠道」
また、道中にある「御梅堂」は、日蓮聖人が休憩された場所で、
日蓮聖人が杖に使われていた梅の木の枝を地面に刺したところ、
梅の木の杖から芽が出で境内にある梅の大木になったと言われています。
「御梅堂」
12月の冬の峠を無事に越えられた日蓮聖人は、地頭の屋敷に向かわれます。
現在、屋敷跡には根本寺さまが建っています。
「地頭の屋敷跡にある根本寺さま」
「三昧堂」
日蓮聖人は、塚原で半年を過ごされ、当時の草庵跡近くには三昧堂(根本寺内)が建っており、
三昧堂でご開帳させて頂きました。
塚原は、元々死体置き場だったそうです。そんな環境の中、寒さもしのげず、食べ物もない状態で
、文永9年2月に三昧堂にて『開目抄(かいもくしょう)』を書かれました。
塚原での生活を『種々御振舞御書』に
「塚原と申す山野の中に、洛陽の蓮台野のように死人を捨る所に一間四面なる堂の佛をなし。
上は板間あわず四壁はあばらにして雪ふりつもりて消える事なし。
かかる所に所持し奉る釋迦佛をたてまいらせ敷物なければ、敷皮打ちしき蓑うち着て夜をあかし日をくらす。
夜は雪雹ひまなし。昼は日の光もささせ給わず心細かるべき住居なり。」
と壮絶な生活を送られたことを記されています。
また、文永9年(1272)1月16日・17日、三昧堂に佐渡・信越・北陸の諸宗の僧ら数百人が集まり、
日蓮聖人と問答を行いました。問答とは、仏様の教えについての論議や宗派間の法論のことです。
その問答で日蓮聖人は、諸宗の僧らを打ち破りました。その結果、多くの僧が日蓮聖人に帰依したと言われています。
日蓮聖人の佐渡での生活を支えられた方がおられます。その方は、阿仏房日得上人です。
阿仏房日得上人は、元々は順徳上皇が佐渡に流された際にお供された北面の武士でした。
順徳上皇に仕え、上皇が崩御の後も佐渡に残り、今度はその御廟に仕えるなど、非常に主従の恩義に篤い方でした。
その篤い思いは信仰にも現れていて、熱心に念仏を信仰されていたそうです。
そんな折、日蓮聖人佐渡配流の噂を聞きつけた阿仏房日得上人は、「念仏の怨敵である法華坊主が佐渡にやってきた。
痛い目にあわせてやろう」と、塚原の三昧堂に訪れました。
しかし、日蓮聖人のお姿を見、そして一言二言問答を交わされると、
たちまち法華経の教え、お題目の素晴らしさに心を打たれ、日蓮聖人に帰依されるようになりました。
日蓮聖人の厳しい生活を支えられたのが、阿仏房夫妻でした。
阿仏房上人は雪の日も変わらず日蓮聖人に食べ物や衣服をお届けし、日蓮聖人に給仕されました。
また、日蓮聖人が身延に入られてからも、阿仏房夫妻は3度も佐渡から日蓮聖人を訪ねておられます。
その阿仏房日得上人が御開山の妙宣寺さまです。
その③に続く…