2023年4月29日
「蓮池図襖」の制作について 品川亮
品川亮さんに襖絵制作についての文章を寄せて頂きました。
今回、初めて蓮の花を描きました。
これまで、何度かスケッチはしてきましたが、作品として描いたことはありませんでした。
僕は普段植物を描くことが多いですが、今まで蓮を描かなかったのは、
仏教的なニュアンスが強いというか、描きづらそうということがあった気がします。
いずれにせよ初めて描くので、捉えきれないというか、
取りこぼしてしまう表現や感覚があるのではないか。
ちいさな変化やわずかな反応も見逃したくないな、と思い、
小さい作品も2点並行して描きました。
襖八面という大きな画面に取り掛かるとき、何を描くべきかとても長いあいだ迷いました。
普段、こころに余裕があるとき僕は「
自分の作品は何百年も残って未来の人たちが自分の作品を見てくれる。
絵画の歴史、文化の一部として守って、紡いでくれる。そういう作品を描ける。」
と考えています。だけど迷ったり、弱気なときはそういうことを忘れています。
勉強のため、お寺や美術館、博物館に行って過去の偉大な襖絵や屏風、
貼付けなどの障壁画を見れば見るほど「こんなん描けるん怪物やなぁ、敵わんなぁ」
と思ってしまいます。しかし、あるとき「これを描いた人も少し前の時代のものを見て、
それをその当時のものにアップデートしていたはずだ。
自分もそうすることで彼らの歴史を紡いで、何百年後かの絵描きが僕の作品を見たときに『敵わないなぁ』と思われるはず」と思い、ようやく構想がまとまりました。
大きな画面に何を描くか、と考えたとき、まず初めに浮かんだのは空間を描きたい、
ということでした。空間を描くというと、
わかりにくいというか難しい表現に感じられるかもしれません。
僕が思ったのは “まるでそこにいるかの様な臨場感、
絵の中に入り込める様な没入感を作り出したい” ということでした。
そして、それには蓮の花がぴったりでした。
蓮の花を作品にするにあたって、いろいろと調べてみました。
やはり仏教にとっては重要な植物で、仏様の台座であったり、経典の中に出てきたりします。
なので、強い信仰心を持っているわけではない僕が、
そんな重要なモチーフを描いてもいいのだろうか、とも思いましだが、
僕は僧侶ではなく絵描きなので、絵描きとしてできることをやるまで、
と遠慮せず蓮を描くことに決めました。
蓮の花を描くと、植物単体、というよりも足元にある水や周りにある空気も
一緒に描いている気持ちになります。実際には水も空気も直接的に描いてはいません。
(つまり、水であったり、遠近法的に奥のものを淡く描いたりしてはいない。)
そして、それが僕がやりたいことに蓮の花がぴったりだと思った理由です。
描かれていないけどもそこにある、という虚構はとても重要です。
(明るい場所を紙の色のままで表すとか、モノとモノの間に手を加えないなど、
描かれていないものも存在しているものとして捉える、というのは日本絵画の特徴の一つ。
そしてとても重要。) 僕がやりたい絵の中に入りこめる様な体験も、
実際に絵の中に入ることはできないので、いわばないものを描いています。
そもそも絵画は平面で、現実世界の3次元なり9次元、
11次元なりを2次元で表そうとする時点で嘘をつかなくてはなりません。
でもその編集というか、余白がとても大切で、それがあるから没入できるのです。
僕は室町時代から江戸時代にかけて、日本の絵画の礎は築かれたと考えています。
金閣寺が建てられたり、応仁の乱があって都が焼け野原になったり、
徳川家康によって全国統一される時代で、その頃に水墨表現が輸入され、
大画面の金碧障壁画や水墨画が描かれ始めました。
その当時は、現代のような電気はないので、夜になると蝋燭や油に火を灯していました。
金箔は現在の照明、つまり蛍光灯やLEDでみると、しっかりと光沢が見えてくる、
というか、西洋の金の表現(クリムトなど)のような力強い金そのものの色が見えてきます。
でも、当時の日本の絵師たちはそのような金の色を求めていたのではなく、
蝋燭に火を灯して、ぼんやりとした揺らぐ光の中で見られると思って描いていたはずです。
そして、その質感を知っているからできる絵画表現があり、
それによって日本の絵画は発展してきたんじゃないか、と考えています。
今回の作品を制作中に、僕も何度も和蝋燭を灯して襖絵を見ました。
僕は、これまでたくさん箔の上に墨を使って絵を描いてきましたが、
それでも和蝋燭に火を灯して障壁画の様な大きな画面を見ると、
今まで一度も見たことがない、僕の全く知らない色が現れて、本当に驚きました。
(正確にいうと、元々は何も描かれていなかったまっさらの紙に、
自分の手でこんなにも美しいものを作り上げることができるんだ!という驚き。)
色、質感や火の揺らぎを感じ「ああ、自分が求めている絵画は見ることではなく、
体験することなんだな」と思いました。和蝋燭の光を受けた金箔は、
日常的に目にする光とは全く異なる質で、きっと当時の人たちもその非日常の、
異質な光に魅了されていたんだと思います。
金碧障壁画がたくさん描かれる室町時代以降になると、
それまでの平面表現とは少し異なる「絵画」としての深みや描く喜びが感じられる作品が
描かれるようになります。(この「絵画」とは現代でいう絵画なので、少し難しい。
平安時代にも職人的な表現の楽しみを感じられる作品もある。
けど、現在の「絵画」、つまり西洋から始まり欧米が中心となっている「絵画」的な喜び
とは少し違う。) きっと当時の絵師も、職業的な平面装飾から、
描く楽しさを感じること、遊びを取り入れることに意識的になっていたんだ思います。
僕も線一本、滲みひとつ、絵の具の質感ひとつひとつに、
当時の絵師たちのように描く喜びを噛みしめながら作品と向き合いました。
どの瞬間も本当に楽しく、筆を運ぶたびに「今、生きてる!」と強く感じました。
上に書いたように、今回の作品制作を通して、
僕は見る絵画よりも体験する絵画に興味を持ち始めました。
というよりも、体験こそが作品だと考えるようになりました。
(もちろんそうではない作品もたくさん作り続けるけど)特にこの作品ではそうです。
なので、多くの方に実際に絵の具の質感、墨の透明感、
そして和蝋燭の火に照らされた作品を体験してもらえたら、絵描きとして幸せです。