2017年7月07日
佐渡島研修旅行その③
その後、佐渡に来られて半年という月日が経ったとき、
日蓮聖人は、塚原から一谷の念仏信者である近藤清久の屋敷に住まいを移られます。
近藤清久は念仏信者でしたが、日蓮聖人の人柄に感服し、心を込めて給仕をしたそうです。
一谷は、塚原に比べると生活しやすい環境であったそうです。
しかし、念仏者などに命を狙われるという危険な状況に変わりはありませんでした。
その地には、妙照寺が建立されています。
『観心本尊抄』を書かれる為に墨の水を汲まれた法華堂「御井戸庵」です。
ここは、日蓮聖人の佐渡での檀越である中興入道の邸宅跡で、
日蓮聖人はこちらの邸宅の井戸から水を汲み、その水を使って墨を摺り、
文永10年4月、ここ一谷で、『観心本尊抄(かんじんほんぞんしょう)』を書かれました。
文永11年(1274)2月に日蓮聖人は、幕府により赦免されました。
その赦免状を日蓮聖人のお弟子の日朗上人が佐渡島までお届けになられます。
しかし、佐渡の目と鼻の先にある経島に漂流されてしまい、一晩中お経を読まれていたと言われています。
そのお話が元になり「経島」と名付けられたそうです。経島の天辺には、日朗上人のお像が祀られていました。
翌朝、 「経島」から聞こえてくる読経の声に地元の人が気づき、日朗上人を救出しました。
そして無事に日蓮聖人と再会できたのです。
「再会の地の石塔」
赦免され、いよいよ佐渡から鎌倉に戻られる日、日蓮聖人は、佐渡でお世話になった人、
信者になられた人々と別れを告げ、豊田の海岸から舟に乗り、
本州に近い「真浦」に向かわれたと向かわれたと言われています。
「豊田の海岸から望む夕日」
そして、離岸の地「真浦霊跡」を訪ねてみると、波題目の碑が残っていました。
またそのすぐ近くには、離岸前、一夜を過ごされ波待ちをされたと伝わる
「日蓮洞窟」や「日蓮堂(法華堂)」が遺されています。
日蓮聖人を新潟県柏崎市のあたりまで船で送り届けたという旧家「船元家」が建てたお堂です。
宝塔には日像上人のお名前がありました。(写真右)
日像上人が、京都へ布教へ赴かれる際、日蓮聖人の足跡を巡りながら、
北陸路から京都に入られたのですが、佐渡にもお寄りになられ、
この離岸の霊跡である真浦を訪れ、そこに宝塔を建立されました。
文永11年(1274)3月に日蓮聖人は、佐渡を発って無事に鎌倉へ帰られました。