三人の酔っ払い


三人の酔っ払い

ある日、お釈迦さまが大勢の弟子を連れて町を歩いていると、戒律を破って酒を飲んで酔っ払った三人の弟子が通りかかりました。

その中の一人は、お釈迦さまの一行を見ると、一目散に走って草むらの中へ逃げ込んでしまいました。もう一人はキチンと地面に座り、自分の頬をたたき、酔っていないふりをし、「全然酔ってはいないのですが、失礼いたしました。」と謝り、最後の一人は、「別に盗んだ酒を飲んだわけではない。」と開き直ってしまいました。

お釈迦さまは、お供の弟子たちに向かって、

「あの草むらの中へ逃げ込んだ酔っ払いは、しばらく修行したら立派な人になることができよう。キチンと座って謝った酔っ払いは、悪いと思いながらも、ごまかそうとしているから、逃げた酔っ払いよりも後でなければ、立派な人になれないであろう。最後の開き直った酔っ払いは、自分が悪いということを知らない人は、いつになったら立派な人になれるか、私にも見当がつかない。」と仰いました。

一般的に「逃げた弟子より謝った弟子の方が素直で良いのでは?」と思ってしまいますが、逃げ出した弟子は、お釈迦さまを前にして戒律を破ったことを恥じ入り、逃げ出してしまったのです。羞恥心を持っているという事は、自分が悪く、情けないと自覚している証拠であり、反省し、道を正す事も容易い。しかし、悪いことをしても羞恥心を感じなくなってしまうと、悟りの道から遠のいてしまう一方なのです。ですから、お釈迦さまは、一番羞恥心を感じたお弟子が一番悟りに近いと仰ったのでしょう。反省する、自分の非を認めるということの大切さは、どなたにもわかっていることだと思います。ただ、そのきっかけを作り出すことが私たち凡夫には難しく思えてしまいます。

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