人を理解するということ


人を理解するということ

以前、「私には人の気持ちがわからない。関心が持てないのです。」と相談されました。
詳しくお話を聞くと、長年の友人から悩み事を相談され、その友人が苦しんでいるのに、
その心の痛みが分からないとのことでした。
確かに、私たちが他人の気持ちを完全に理解するというのは、
本当に出来るのか分からないぐらい難しいことだと思います。

私たちが他人を理解しようとする時、相手のことを自分の価値観で判断する、
もしくは、相手の立場になって考える等の方法しかありません。
しかし、それらも結局は自分の中にある選択肢から答えを見つけているだけで、
相手の気持ちを分かった様な気になっているだけなのかもしれません。
たとえ、同じ境遇にいたとしても、人の考えは千差万別で完全に分かるというのは難しく思います。

私は、その相談にすぐに答えが見つからず、モヤモヤしながら過ごしていました。
数日後、本堂でお経を読んでいると、
お自我偈の「一心に仏を見たてまつらんと欲して、自ら身命を惜しまず。」という句に目が止まりました。
このお言葉は、「私たちが素直に正直に心から仏さまに会いたいと、
いのちを惜しまない心構えになれば、仏さまは霊鷲山に姿を表す」と仰っています。

私たちが真に人を理解する時も、
仏さまにお会いしたいと思うときと同じぐらいの心構えが必要なのではないでしょうか。
「関心(interest)」の語源はラテン語の「共にある。相互的に存在する」という言葉です。
私たちが人を理解する為の手段は限られていますが、
素直に正直に心から話を聞き、悩みが去るまで傍らを離れないでずっと寄り添う。
たとえ自分を犠牲にすることがあってもその相手のことを一番に考える。
そうすると自ずと相手の気持ちが理解出来るのではないでしょうか。
もしかしたら、その「行い」そのものが「理解」というものかもしれません。

rikai